原告代理人弁護士
ジーグラー・ジーグラー&アソシエーツ
クリストファー・ブレナン(代理申請中)
ニューヨーク州弁護士
地方裁判所 ネバダ州クラーク郡
電子的に提出2024年12月18日午前8時51分
原告、飯田恭平は、日本在住の37歳の男性である。
被告、ジャニーズ事務所は、1962年頃に事業を開始。1975年に日本で法人化。ジャニーズ事務所は2023年に事業を停止した。
被告、ジャニー・喜多川はジャニーズ事務所の創設者であり、1975年からCEO(最高経営責任者)を務め、2019年に亡くなった。喜多川の遺産は、ジャニーズ事務所の所有権で構成されている。
被告、STARTO ENTERTAINMENT,INC. は、2023年に設立された日本法人であり、ジャニーズ事務所の後継法人である。
被告、株式会社スマイルアップは、ジャニーズ事務所の元取締役が2023年に設立した後継会社である。
被告、メリー・喜多川・フジシマは、喜多川の姉で、ジャニーズ事務所の重要な株式を保有し、2021年に亡くなるまで、ジャニーズ事務所の取締役を務めた。2014年から2021年までメリーの遺産には、ジャニーの持分の価値が含まれている。
被告、ジュリー・ケイコ・フジシマは藤島の娘であり、ジャニー喜多川の姪でもある。 ジャニーズ事務所の取締役であり、2021年から2023年までCEOを務めた。
他にも、被告人としてかつての取締役や顧問弁護士、STARTO、スマイルアップ、ネバダ州でMirage社の事業承継者としてホテル事業を行っていた企業も含まれた。
本訴訟の原因となったすべての行為と出来事はネバダ州クラーク郡で起こった。
ネバダ州の裁判所は、連邦法に従って被告に対する人的管轄権を有する。
この事件は、最大かつ最長の児童性的虐待事件のひとつで、近代史に残るスキームである。
●被告・ジャニー喜多川について
1931年、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。喜多川は人生の最初の2年間をカリフォルニアで過ごし、次の年に日本に移った。第二次世界大戦終結後、喜多川は1947年にロサンゼルスに戻った、大学に進学した後、劇場で働き、そこで映画に興味を持ち始めた。
1952年、喜多川は日本に帰国し、アメリカ市民として徴兵され、朝鮮戦争で米軍に入隊。1962年に「ジャニーズ事務所」という名の芸能事務所を設立。1963年、喜多川は少年一人に性的暴行を加えたとして告発された。
1960年代から1970年代にかけて、喜多川は若手男性エンターテイナーの育成に力を入れる。 これらのボーイズ・バンドは未成年の少年たちで構成されていた。
ジャニーズ事務所は、ジャニーズJr.と密接な関係に置くことを望んだ。未成年の少年たちを喜多川と一緒に旅に出させた。カリフォルニア州、ネバダ州、ハワイ州、ニューヨーク州など、アメリカの複数の州と地域が含まれる。
ジャニー喜多川は、誰がジャニーズのメンバーになるかを決める絶対的な権限を持っていた。Jr.のメンバーをいつでも疎外したり解雇したりする権限も持っていた。
少年たちは「ジャニー喜多川の命令に従わなければならない」というプレッシャーを感じていた。だから、ジャニー喜多川は、少年たちの人生に対する絶対的な支配権を得ることができ、ジャニーズ事務所は性的虐待を助長する環境を作り出せたのだ。
●原告について
原告は1987年11月18日に生まれた。 原告の父親は舞台演出家として働き、母親はダンスを教えていた。原告の幼少期は外向的で、子供の頃からダンスが好きで、母親のスタジオでレッスンを受けていた。
中学生になったとき、彼は両親に「父親のあとを継いで舞台監督になり、舞台で踊りたい」と伝えたため、2001年、母親の友人が原告にジャニーズJr.に申請書を提出、原告はオーディションに招待された。
原告は約12歳から18歳の間にオーディションを受け、年配の男性に会った。 この男性が喜多川であることを後に知った。ジャニーズJr.に入った原告は、雑誌に登場したり、テレビに出演したり、先輩のコンサートでバックダンサーを務めた。
●事件について
2001年9月、原告は、ジャニーズJr.のメンバーと共に夕食に招待された。 夕食が終わろうとしたとき、喜多川が「もうこんな時間だ」と提案。原告と他のジャニーズJr.メンバーがジャニー喜多川の家に一晩泊まることになり、原告は母親に電話で許可を求めた。
この電話でジャニー喜多川は、原告の母親に対して、自分の監督の下なら原告は安全だと保証した。
喜多川氏の自宅には2階に寝室が2つあり、マットレスで埋め尽くされていた。2階の寝室は、喜多川が原告を指導した場所で、ジャニーズJr.のメンバーは眠っていた。
原告は、誰かに足をさすられる感触で目を覚ました。自分の足をさすっているのが喜多川だと気づいたとき、原告は怯え、ジャニー喜多川が自分を一人にしてくれることを期待して寝たふりをした。
しかし、ジャニー喜多川は原告の身体を揉み続け、やがて性的暴行を加えた。原告はまだ13歳で、ジャニー喜多川からの行為によって混乱し、恐怖を感じるようになった。その後、原告は徐々に仕事量が増えていった。
原告は月に2~4回、喜多川宅に滞在していたが、宿泊するたびにジャニー喜多川の被害に遭った。
2002年になると、原告は週末のほとんどを喜多川宅に滞在するようになった。
被害について、原告とジャニーズJr.の他のメンバーは公然と話をしていた。ジャニーズ事務所では、定期的に被害に遭うことは常識だった。
そのため原告は、ジャニーズJr.に残りたければ、ジャニー喜多川に定期的にやられることを受け入れるしかなかった。
だが、原告は、中学校の女子生徒と交際を始めたことで、「適切な関係」とは何かを深く理解するようになり、ジャニー喜多川に反感を抱き始めた。
そして、2002年5月頃、ジャニー喜多川からやられることを拒否した。喜多川を突き飛ばし、自分の下半身に触れることを許さないようにしたのだ。
その翌朝から、ジャニー喜多川は原告との会話を完全に無視し始めた。
もう喜多川のお気に入りではないことは明らかだった。Jr.の他のメンバーも、原告から距離を置くようになった。喜多川に無視され、他の選手から仲間はずれにされることによるストレスは、原告を緊張させ、深刻な抑うつ状態に陥らせた。
喜多川は原告の母親に電話をかけ、「このままでは原告の人生は終わってしまう」と告げ、ラスベガスへ旅行に同行させた。
これでジャニーズJr.のメンバーは、彼に再び優しく接するようになったが、喜多川の性的暴行を再び拒否すれば、また仲間はずれにされることを原告は恐れていた。
2002年8月16日にネバダ州クラーク郡に到着し、 喜多川は原告に自分の部屋で寝ろと命じ、滞在3日間、原告は被害に遭った。当時、原告は14歳。喜多川は71歳だった。
結果的に、原告は2002年から2006年にかけて、定期的に性的暴行を受け続けた結果、外傷性ストレス症候群、うつ病、不安神経症、半身不随、その他さまざまな問題に苦しんだ。
●ジャニーズ事務所の組織と運営
1960年代初頭の設立以来、ジャニーズ事務所は株式非公開企業だった。
その後、同族経営の事業体となり、1975年には親密な同族会社としてスタートした。1980年代以降のジャニーズ事務所の株主は、喜多川氏のみであった。
2019年に喜多川が亡くなり、2021年にメリーが亡くなると、被告の藤島ジュリー景子はジャニーズ事務所の所有権を100%取得した。
藤島ジュリー景子および取締役は、ジャニー喜多川がJr.の活動をほぼ独占的にコントロールすることや、Jr.のメンバーがジャニー喜多川の家で夜を過ごすことを許可していた。
2002年以前の数十年間、メリー喜多川、藤島ジュリー景子および取締役は喜多川がジャニーズJr.のメンバーを国内外に旅行に連れて行くことを知り、許可していた。Jr.のメンバーも、自分たちが喜多川の監督下にあったことを完全に知っていた。
1965年、喜多川は裁判の対象となり、メディアで報道された。喜多川が未成年の少年に対して行った「淫らな行為」に関するものだ。
1988年、フォーリーブスのメンバーは、喜多川が行為を強要したと公に告発した。
1996年、ジャニーズJr.の平本淳也が日本で出版した本には、ジャニー喜多川がジャニーズJr.のメンバーを加害しているのを目撃したと書かれている。
1999年、『週刊文春』の記事で、元ジャニーズJr.メンバーによる数々の告発がなされた。翌2000年、ジャニー喜多川は『週刊文春』の記事に対し、名誉毀損で同誌を提訴したが、東京地裁は未成年の被害者による告発が「ほぼ真実」だと判断した。
2000年1月30日、『ニューヨーク・タイムズ』紙でジャニーズJr.の元メンバーが被害を語った。ジャニーズ事務所は、メディアに対する巨大な権力を行使して、広範な報道を阻止した。 日本の主要メディアは、喜多川とジャニーズ事務所に関するネガティブな情報を一切報道しなくなった。
その結果、喜多川氏は2019年に亡くなるまで、ジャニーズ事務所のCEOに留まることを許され、引き続きジャニーズ事務所のCEOを務めた。
2023年3月、英国が制作したドキュメンタリーが公開された。
2023年8月、第三者委員会による報告書が公表された。報告書は、喜多川が性的虐待を行った人数はおそらく1000人に上ると結論づけた。
取締役を含む経営陣は、被害者たちによる重大な申し立てを認識していたが、そうした被害を食い止めるために何もせず、むしろ隠蔽するための陰謀に積極的に関与した。 報告書は、新聞やテレビが喜多川の犯罪を暴露しなかったことを厳しく批判した。
2023年10月、ジャニーズ事務所は記者会見を開き、事業を停止し、新たな 株式会社スマイルアップがジャニーズ事務所の後任となることを発表した。
記者会見では、スマイルアップの目的は、被害者に対する補償と、 ジャニーズ事務所の消滅後に重要な資産はすべて売却されるとした。
ジャニーズ事務所の所属タレントは、新たに設立されたSTARTOという会社に移籍した。STARTOの目的は、ジャニーズ事務所とまったく同じビジネスを続けることだった。それは、エンターテイナーの発掘、雇用、育成、プロモーションである。
だが、スマイルアップが確立した「被害者補償」は茶番劇だった。何十年もの間、精神的な苦痛を味わってきた被害者に、ごくわずかな補償金しか提供しなかったのだ。
●損害に関する原告の主張
"ジャニー被告"は、原告を危険から守る注意義務に違反し、被害につながる状態を作り出し、被害事実を隠蔽しただけでなく、合理的な予防措置を講じなかった。
被害に遭った少年たちは、重度の精神的苦痛を含むが、これに限定されない傷害および損害も被った。そのため原告は医療費、入院費、手術費、治療費を負担し、弁護士を代理人として雇わざるを得なくなった。従って、妥当な弁護士費用、および訴訟費用を回収する権利がある。